ANMELDEN「こちらがその気になれば、御門などいつでも潰せる」 最初に声を上げたのは、冴子だった。 「雅臣さん、それは話が違うでしょう。今日は両家に傷がつかないよう、話を収めに来たのではないの」 「話が違うのはこちらだ!」 雅臣が冴子をにらんだ。 「あなたが真尋さんを離婚させ、澄麗を朔弥さんの妻にすると言ったから、こちらは御門を支えてきたんだぞ」 病室に、白い花の匂いが残っている。 誰も私には言わなかった約束が、当然のように口にされた。 「約束ではありません。お互いの家にとって望ましいとお話ししただけです」 「その話を信じたから、澄麗は待っていたんだ!」 「待てとは言っていません。まして、階段から押しなさいなんて、誰が言うのです」 澄麗が、落とした花を拾おうとした姿勢で止まった。 「……お義母様?」 「そう呼ぶのはやめてちょうだい」 冴子の返事は早かった。 澄麗の顔から、今度こそ作っていた表情が消えた。 「お義母様が言ったのよ。わたくしこそ朔弥さんにふさわしいって。真尋さんは子どももできないし、家格も釣り合わないから、すぐに離婚するって!」 「私は、あなたが人を殺そうとするほど見境のない娘だとは思わなかったのよ」 「澄麗をその気にさせたのはあなただろう!」 雅臣が、床に散った白い花を靴で踏んだ。 「孫ができたとわかった途端、うちの娘を切るつもりか」 「この子は御門の後継です。澄麗さんのために失うわけにはいきません」 冴子の視線が、私ではなく、お腹に下がった。 嫁を交換する話から、今度は子どもの取り分の話へ変わった。 「二人とも、もう黙れ」 朔弥さんが、私のベッドと彼らの間に立った。 「離婚も、再婚も、あなたたちが決めることではない」 「できるものなら、やってみろ」 冴子が顔を上げた。 「朔弥、何を言っているの」 「母さんは、一条家を病室に入れた。真尋に事故だと書かせるために」 「私は両家を守ろうとしたのよ」 「真尋は、まだ自分でトイレにも行けない」 朔弥さんが振り返った。 「そんな真尋の前に、押した人間と金を並べた。それが母さんの守り方か」 雅臣が、朔弥さんの言葉を遮った。 「会社だけで済むと思うな」 彼の視線が、私と城戸さんの間を往復する。 「社長夫人と提携先の男性との
私たちの反応など、最初から聞く気はないらしい。 朔弥さんが口を開く前に、弁護士は用意してきた説明を続けた。 「その点を双方で確認し、今後は口外しないという合意書です。治療費と休業中の補償は、一条側で全額負担いたします」 弁護士が、書類とペンを私の前へ滑らせた。 謝りに来たのではない。「事故でした」と、私自身に書かせるために来たのだ。 金額の欄には、見たことのない桁が並んでいた。 数字を見た瞬間、階段で背中を打った痛みが戻った。お腹を押さえ、この子だけはと願った時間まで、この金額で買えると思っている。 私の仕事を奪った時と同じだ。 この人たちは、お金を払えば、起きたことまで自分たちに都合よく変えられると思っている。 「私とこの子が死にかけたことに、値段をつけるんですか」 澄麗の父は私のお腹を見た。 「お子様の心拍は確認できたと伺っています。であれば、両家が傷つく形にする必要はないでしょう」 「傷ついたのは家ではありません」 声が掠れた。 それでも、澄麗の父から目をそらさなかった。 「私です。私の子です」 隣で、椅子が大きな音を立てて倒れた。 朔弥さんが立ち上がっていた。 合意書をつかみ、真ん中から破る。二枚、四枚、それでも足りないように、もう一度引き裂いた。 「心拍があれば、押してもなかったことにできるのか」 「御門社長。感情的にならずに――」 「俺の妻と子どもを殺しかけた人間が、この病室にいるんだぞ!」 朔弥さんの怒鳴り声を、初めて聞いた。 澄麗が抱えていた花束を取り落とす。白い花が床に散った。 「全員、出ていけ」 「朔弥さん、わたくしはあなたのために」 「俺の名前を呼ぶな」 澄麗の唇が開いたまま止まった。 澄麗の父の顔からも、余裕が消える。 「娘に向かって、なんという口のきき方だ」 「真尋を階段から突き落とした人間です」 「澄麗はそんな娘ではない!」 澄麗の父が、破れた合意書を朔弥さんの足元へ投げた。 「非常ベルの中で混乱しただけだ。そもそも、娘をあそこまで追い詰めたのはあなたでしょう」 「俺が?」 「澄麗は幼い頃から、あなたの妻になると信じて生きてきた。それを突然、別の女と結婚して恥をかかせた。娘がどれほど傷ついたと思っている!」 押された私より、押
骨折した左腕を三角巾で吊った榊原さんが、右手で差し出した紙には、日付と金額が並んでいた。 私の担当を減らされた日。 城戸さんとの写真が流れた日。 妊娠がわかったあと、澄麗が会社へ来た日。 そのたびに、一条家の関連会社から榊原さんへ金が動いている。 「何を依頼されたんですか?」 「いわゆる別れさせ屋です」 別れさせ屋。 ドラマの中だけに出てくる仕事だと思っていた。 まさか、自分の結婚が標的になっていたなんて。 榊原さんの右手が、三角巾から出た左手の薬指を覆った。 指輪はない。それなのに、根元だけが細く白い。 すぐに手を離し、何事もなかったように右手を膝へ載せる。 「高瀬さんと御門社長を離婚させる。そのために、あなたから仕事と信用を奪うよう依頼されました」 「私の担当を減らしたのも」 「仕事から退かせるためです」 「城戸さんとの写真は」 「不倫を疑わせるためです」 「澄麗さんが会社へ来たのは」 「あなたの代わりはいると、見せつけるためです」 全部仕組まれていた。 仕事を奪われたことも、城戸さんとの関係を疑われたことも、澄麗が当然のように私の席へ入ってきたことも。 私が自分から退職し、離婚を選ぶように。 そうなれば澄麗は、何も知らない顔で朔弥さんの隣に座れる。 「城戸さんの推薦状もですか」 「はい。城戸さんの署名は本物ですが、説明された目的が違います」 私の仕事が足りなかったから、席を奪われたのだと思っていた。 妻として足りないから、若くて家柄のいい澄麗に代えられるのだと。 全部、そう思わせるためだった。 悔しさで、紙の端を強くつまんだ。 城戸さんが頭を下げた。 「確認が足りませんでした」 「城戸さんまで謝らないでください」 「私の名前で、高瀬さんの席を奪われた」 「城戸さんの名前を使ったのは、榊原さんです」 榊原さんが、まっすぐ私を見る。 「はい」 「あなたにも、腹が立っています」 「当然です」 本当に可愛げがない。 でも、階段では私をかばった。 そして、その腕を折った。 朔弥さんが書類を閉じた。 「この証拠は、警察と法務へ渡す」 榊原さんが答えた。 「警察には、昨夜すべて話しました。証拠も渡しています」 私は、胸元に吊られ
冴子が病室を出ていって一時間もしないうちに、出血が増えた。 夜中の検査室には、機械の作動音だけが続いていた。 女医が画面の一点を拡大する。何かを探すように動いていた指が止まるまで、私は瞬きもできなかった。 「先生」 「心拍はあります」 肺に残っていた空気を、ようやく吐き出した。 「では、赤ちゃんは」 「生きています。ただ、出血が増えています。引き続き安静が必要です」 生きている。 その言葉に縋りつきたいのに、女医がつけた「ただ」が離れてくれない。 今は生きている。けれど、明日のことまでは誰も約束してくれない。 お腹へ手を当てても、まだ小さすぎて何もわからなかった。画面を見なければ、この子がここにいることさえ確かめられない。 それがたまらなく心細かった。 ベッドごと病室へ戻されると、朔弥さんが立ったまま待っていた。 「心拍はありました」 「そうか」 彼は大きく息を吐くと、壁へ手をついた。 座ればいいのに、しばらくそのまま動かなかった。私より先に崩れてしまわないよう、壁に支えてもらっているようだった。 「眠ってください」 「君が眠ったら眠る」 「私は眠っています」 「痛みで起きていただろう」 言い返せなかった。 眠ったふりをしていたことまで、気づかれていた。 朔弥さんはベッド横の椅子へ座り、私の手を握った。 「……姉さんの時も、俺は何もできなかった」 彼から香澄さんの話をするのは珍しかった。 「流産したと聞かされた時、母は最初に、次はいつ妊娠できるのかと医師に聞いた」 さっき病室へ来た冴子は、私の顔より先に検査表を見た。そして、赤ちゃんは無事なのかと聞いた。 同じだった。 香澄さんがいた場所に、今は私がいる。 知らずに重ねていた自分の手へ、力を込めた。 「姉さんは同じ部屋にいた。それなのに、誰も姉さんを見ていなかった」 「朔弥さんは?」 「俺も母を止められなかった」 朔弥さんは私から目をそらさなかった。 謝っているのは、今日のことだけではないのだと思った。何年も前から残っていた後悔まで、私を失いかけたことで引きずり出されたのだ。 「今日も、俺は何もできなかった」 「むしろ、あなたはずっと心配してくれていました。油断していたのは私です」 「君のせいじ
冴子は、すぐには次の言葉を出せなかった。 病室の空気が、ぴんと張ったまま動かない。 朔弥さんの手は、私の手を包んだままだった。 さっきまで会社も御門も捨てると言っていた人が、今度は逃げないと言った。 私たちが帰る場所を、御門のためではなく、私たちのために作ると。 その言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。 帰れる家。 ただ戻される場所ではなく、命令を聞くために立つ場所でもなく、私とこの子が安心して眠れる場所。 そんなものを望んでいいのだろうか。 御門に嫁いだ日から、どこかで諦めていた。 この結婚は条件で、この子は役目で、私はそのための身体なのだと、そう思わされてきた。 けれど朔弥さんは違うと言った。 私たちのために作る、と。 嬉しかった。 今すぐ泣き出して、ありがとうと言いたかった。 嬉しいのに、泣きそうなのに、下腹の痛みがそれを許してくれない。 冴子の唇が固く結ばれた。 今までの冴子なら、ここで私を見たはずだった。 嫁としての心得。御門の妻としての自覚。母親になるなら耐えなさい。 そんな言葉で、私を黙らせようとしたはずだった。 けれど、冴子が見ていたのは朔弥さんだった。 思い通りに育てた息子が、初めて自分の腕の中から出ていく。 その事実を、まだ受け入れられない顔だった。 「その言い方は何です。私は家族として心配しているのよ」 「家族なら、最初に真尋を見ろ」 朔弥さんの声は静かだった。 静かなぶん、逃げ道がなかった。 「腹の子の無事だけ聞いて、真尋の痛みを一度も聞かなかった」 冴子の頬が、わずかに引きつった。 「私は、御門の将来を考えて――」 「姉さんにも、そう言ったのか」 冴子が黙った。 その沈黙だけで、病室の温度が変わった気がした。 女医が病室へ戻ってきた。 「患者さんを休ませます。ご家族でも、今はお帰りください」 「私は御門の――」 「私の患者は高瀬真尋さんです」 女医は冴子を廊下へ出し、扉を閉めた。 扉が閉まった瞬間、張っていた糸がふっと緩んだ。 冴子の声が遠ざかっていく。 それだけで、病室の空気が少しだけ私のものに戻った気がした。 赤ちゃんを守るため。 御門のため。 家のため。 いくつもの正しそう
目を開けると、白い天井があった。 広い処置室。何人もの足音。聞き慣れない機械の音。 窓の向こうに、低い商業ビルの看板が見えた。 その奥に、駅前の歩道橋が小さく重なっている。 父が入院した時、何度も見た景色だった。 ここは、あの総合病院だ。 腰から下腹にかけて、重い痛みが残っている。 「高瀬さん。聞こえますか」 ベッドの横に、白衣の医師がいた。 名札に、産婦人科と書かれている。 その隣に、いつものクリニックの女医の顔が見えた。 「先生……何でここに」 「御門さんから連絡を受けました。あなたの経過を知っている医師として、同席します」 「赤ちゃんは」 自分の声なのに、ひどく掠れていた。 「これから確認します。まず、転落した時のことを教えてください」 「階段で、肩を押されました。何段か落ちて……榊原さんが受け止めてくれました」 「わかりました。今は検査に集中しましょう」 機械の画面へ、白と黒の影が映る。 前に見た時よりも、ずっと小さく感じた。 女医の手が止まった。 何も言わない時間が長い。 「先生」 「待ってください」 画面の中を指で示される。 「ここです」 小さな明滅があった。 「心拍は確認できます」 その一言で、張り詰めていたものが崩れた。 画面の中の小さな明滅が、急にただの点ではなくなる。 そこにいる。 まだ、ここにいる。 私のお腹の中で、必死に動いている。 落ちたのに。 血が出たのに。 あんなに痛かったのに。 この子は、まだ私の中にいてくれた。 涙がこめかみへ流れた。 「……生きているんですね」 「はい。ただ、出血があります。今は安静にして、変化を見ます」 「無事に生まれますか」 女医は簡単に頷かなかった。 「今、赤ちゃんは頑張っています。私たちもできることをします」 それ以上は聞けなかった。 処置が終わり、病室へ移される。 扉が開くなり、朔弥さんが入ってきた。ネクタイはなく、シャツの袖には階段の埃がついている。 「心拍、ありました」 彼はベッドの横へ来たまま、何も言わなかった。 「朔弥さん」 私の手を両手で包み、額へ押し当てる。肩が大きく上下していた。 「会社も、御門もいらない」 一瞬、何を言わ
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう







